あなたが見ている空は、どうしてトンネルでないと言えるのか?
- Masafumi Rio Oda
- 2021年8月21日
- 読了時間: 4分
この世界は、プラトンの洞窟の比喩の内在化である、と考えること、つまりプラトン哲学におけるイデアを消去してなお、洞窟自体が残り、洞窟こそが実在である、と考えることが可能である。
このことを思いついたのは、ネット上でいくつかのCG映像作品を観ながら、良くある表現手段ではあるが、トンネルを通っていく表現を分析していた時である。
もし私が、トンネルを用いたCG映像を作るとしたらどうするか-それは、自由にカメラが操作できることを前提したうえで、カメラの進む方向へと自動的に(プロシージャルに)トンネルが生成されていく、というものであった。ところで、トンネルを進むだけでは面白くない。私が参考にしていたトンネル動画は、キラキラしていて、派手で、サイバーで、冒険心に富み、ワクワクさせるものだった。しかし決定的な欠点があるとすれば、それらの作品のトンネルには出口がある(あるいは出口が前提されている)、ということだ。トンネルの永遠自動生成と、トンネル内部の演出やオブジェについて考えているうちに、オブジェ、すなわち対象と、世界の区別、というのは果たして妥当なのだろうか?と思い至った。世界の中に対象がある-あまりにも自明な描像すぎて、それまで疑ったことのないことだった。しかし、もし対象すらもトンネルのもつある特質によって説明・還元され、そして対象を、さらにはトンネル自体を包摂する唯一の世界などないとしたら?そう考えることに、何か理論的な非整合性があるだろうか?
このような思考には既に様々なヴァリエーションが存在する。真っ先に思いつくのは、マルクス・ガブリエルの世界の実在性の否定であろう。私は彼の本を数ページ読んで、知的な面白みのなさゆえに読むのをやめたし、今でも面白くないと思っている。というのは、彼にとって世界の代わりにあるのは、諸々の対象領域だからである。それらは経験的なものであって、それらの思弁的な理由は問われない。それはそれでいいのだが、しかしどこに、そのような対象領域が、各々異なったものである、と、非経験的に前提する理由があるのだろうか。マルクス・ガブリエルにとっては実在についての理由の空間はどうでもいいかも知れないので、それを彼に問うことは一切意味がないが、しかしもし非経験的に、世界といったものを否定するならば、彼が対象領域と呼んだものは同一のものから構成されていることを妨げるものは何もないし、さらに、そのことはやはり世界という統一抜きに考え続けられることが可能である。
すると、むしろこの思考のオリジナルとなるのは、ベルグソンのイマージュ論やメルロ=ポンティの身体論といったプリミティブな議論の延長にある、ドゥルーズの「襞」や、ドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」といった、何らかの際立ったもの(質的なもの、出来事的なもの)をそうでないものによって説明する一元論ということになろう。そして彼らは体系への志向があったがゆえに、それらを欲望や精神分析学批判や資本主義的ダイナミズムといったものに結びつけたが、しかしそうした複雑化・体系化を一切減算したうえで、なおシンプルな実在論としてのトンネル論―トンネルが、どこかへの到達を意図して元来作られたものであるとするなら、哲学的に適切な呼び方は、トンネルへのトンネル論、それ自体におけるトンネル論、などとなろうが―が可能である。それは、ゲーム開発エンジンによって実際に構成することのできる実在論である。そして逆イミテーションの考え方によって、現実世界がその例化として解釈されることが可能である。
あなたが見ている空は、どうしてトンネルでないと言えるのか。物理学者が言う宇宙とは、どうしてトンネルでないと言えるのか(詳しくは知らないが彼らの中には宇宙間をつなぐトンネルが存在する、と考えるものもいるようだ。しかしこの文脈では全く関係がない)。存在者の場所としての存在がある、つまり存在論的差異の存在の主張が妥当である、となぜ言えるのか。
はっきりと識別可能な対象とそれを包摂する空間、という区別は、必然的ではない。それは、あるものがある側面・パースペクティブにおいては対象として機能し、他の場合には空間として機能する、というだけに留まらない。
例えば、トンネル状のものは、対象化可能な空間であるが、仮想的にあるいは理想的に、俯瞰が不可能であるならば、つまり対象化が原理的に不可能であるならば、さらにそれは自らの特徴によって、自らの他の部分において際立っているのならば、それは対象/空間の二元論を超えている。
カメラは自作オブジェから成るトンネルを進むが、グローバルな空間が存在せず、空間でも対象でもないトンネルが、そしてそれのみが存在する世界を、進むのである。
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