私は映画を好まない、映像作家であるにも関わらず。しかしそれは何故か。その問いは、半ば燦然たる映画史における名作の参照を行わないための消極的な理由によって説明されてきた。しかし、ドゥルーズがシネマ2で、映画の枠内ではあるが、それが古いリアリズムや行動イメージから、光学的・音声的記号へのシフトを語った時、後者は、まさに私の映像作品が対象としているものであり、その議論から単純に「映画性」を取り除けば、そのまま映像作品の理論、いかに古典的であろうとも―が得られるのではないか、と期待した。
ドゥルーズは問う。「古いリアリズムや行動イメージに存在したような従来の感覚運動的状況が崩壊するとき、なぜ純粋な光学的音声的状況、光記号と音記号だけが出現するのだろうか。[...]彼〔ロブ = グリエ〕は触覚的なものだけでなく、音や色彩までもが事実確認には不適当で、あまりに感情や反応に関係しているとして放棄し、線や表面や計測によって実行される視覚的な描写だけを確保した。映画は彼のこのような進展の一つの理由となり、色彩と音がもつ描写の力能を発見させた。色彩と音は対象そのものにとってかわり、対象を消し、新たに創造するからである」(C2, 16-17)この部分だけで既に、映画史における表現手法の変化の記述に留まらない、色彩と音とのみを対象とする今日的なビデオアートへのシフトが、定義されている。しかし、この記述においてすら、ブレッソン『スリ』の手が触記号として、空間に、また光学的な機能に意味を与えるというその「意味」が、映画から映像への純粋なシフトを妨げている。
ここで、光学的・音声的記号を、我々の文脈で明確にしよう。「現代的映画を支配することになるモンタージュ・カットは、イメージの間の純粋に光学的な移行あるいは句読点」である、と差し当たりされるが(C2, 18)、これは現代の映像作品が、シーンの切り替えによって得ている一般的な映像的リズムである。しかし、小津安二郎の映画はそれに留まらないと主張する文脈で、「小津はこの手法の意味を変えてしまうのであって、それは今や筋立ての不在を証言する」(C2, 18) 筋立てと意味とは、複雑な関係を結んでいるが、小津は筋立ての放棄によって、意味の不在を獲得した。それは映画史的には画期的な出来事であったろう。現代の映像作品においては、一般に、意味が不在の抽象的筋立てこそが、純粋に光学効果的・音声効果的に構成される。しかし、ある機関、あるいは一般視聴者は問うだろう、「この作品の意味とは何か?」と。意味を与えることは恣意的であるが、予めの意味の獲得から映像作品を構成する、といったとき、この構成という実践プロセスが問題となる。しかしこの構成についての、いかなるジェネリックな手続きもあり得ないであろう。それは、「表現」という領域に属する事柄であり、しかしながら「表現」とは余りに曖昧で、それは作家の想像力とも結びついているだけに一層そうなのだが、しかし「表現」とは何であるか、がやはり問われなければならないだろう。「表現」を私の手持ちの概念装置で言い換えるなら、「内在化作用」ということになる。
ところでドゥルーズは、いささか映画論から離れ、存在論的なセリー(系列)について語っている。まず、それはいかに正則的に構成されていようとも、(正則な)「項」によって構成されている。ここで、セリーにおける項とは何か、が問われよう。次に、この諸項の連結によって構成されたセリーは、その連結力の強弱を持つ。それが弱い連結を持てば、それによってセリーそのものが動揺する、ついには「秩序〔現実〕のうちには現れない」といった事態が生ずる(C2, 20)。また、ある正則のセリーがもつ正則な項が、他の正則なセリーに出現すれば、それは「強い瞬間の外観、突出した、または複雑な点という外観」(C2, 20)を帯びるのであって、単に正則なセリーとその諸関係だけで、出来事が語られていることになる。この点は『差異と反復』や『意味の論理学』における出来事の理念的実在性の議論とは異なる形で出来事が語られている部分として、特筆されて良い。しかしながら、この出来事の(受動的)契機がここでは不明なのであって、それは『差異と反復』であれば「シーニュ」と呼ばれていたものであろう。
ドゥルーズの(超越論的)セリー主義は、比較的晩年のライプニッツ論『襞』において完成する。ドゥルーズのセリー主義を引き受けつつ、ポスト・ドゥルーズ的な身振りの一つで、形而上学の特殊学問化を企てる私にとっては、『襞』は未だ最重要著作の一つである。続く。(織田理史)
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