• Masafumi Rio Oda

バディウ「存在と出来事」完訳によせて


バディウの達成は、一つの頂点であり、また反省されるべき過剰であり、化け物じみた極端であり、これを、またこのスタイルを継承すること、あるいは後続の議論を模索することは、出来ない。だからこそ、弟子のメイヤスーはそのようなスタイルを取らなかった。それは、哲学的内容以前の問題である。あたかもXenakisにおいて頂点に達した音楽における数学的処理の直接の後継がおらず、すぐさまポスト-Xenakisが模索されたように。それも、何もXenakisの数学的方法が複雑でそれを後継するのが困難だという理由ではなく(実際Xenakisの方法は数学的には初等的なものであり、現在のプログラミングを駆使する多くのメディアアーティストは遥かに複雑な数学に通じている)、そのインパクト、時代状況におけるインパクトを継承することが不可能である、という理由によって。あるいはワーグナーを思い出しても良い。「リング」を始めとする眩暈のするような巨大な達成に、多くの後続者が熱狂した。有名なのは、ブルックナー、マーラー、ツェムリンスキー、シェーンベルク等である。だが、彼らはワーグナーのスタイルを継承しなかった。継承する能力がなかった、とはまるで思わない。彼らは彼らでそれぞれ偉大な仕事をしており、従って継承する音楽史的必要がなかった、と判断した、とするのが合理的である。

いずれにしろ、バディウの日本における評価は、多かれ少なかれ覆るであろう。例えば邦訳されていたバディウの著作の代表は、ワーグナー論や政治論を除けば、長く鈴木創士訳『ドゥルーズ――存在の喧騒』であった。だから、バディウとはドゥルーズのライバルである、という認識が、根強くあった。そこで、バディウが出来事の哲学者であり、ドゥルーズが「出来事=存在」という定式を演繹したのだとすれば、バディウは「出来事とは存在とは本質的に異なる」ことを主張していたのだ、と。それは大雑把には当たっている。

近藤和敬,松井久訳『推移的存在論』から、事態は少し変わってきた。ドゥルーズへの直接的・間接的言及以上の価値を持つ、「バディウ哲学」が、徐々に認知され始めたのだ。そして、ドゥルーズの能天気さに対して、なんとバディウは「出来事」を肯定することに慎重な事か。本書の前半は、ほぼ出来事を存在から締め出す作業に充てられている。後半、それもかなり後の方になって、やっと出来事の、非存在的な性質が次々に明らかにされ、結果肯定されはする。それは読者にとっては予想されたことではあろうが、それにしても出来事という概念の導入の慎重さには、素朴な知的驚異を覚えざるを得ないのである。

この著作は、ある確かな面では難解である。一つには、形式論理的な表記に通じていないと読解が難しい。

しかし、形式論理的な記述について言えば、そこまで複雑な用いられ方はしていない。多分、入門書や、大学での講座を1年でも取れば、十分理解できる範疇である。また、プラトンからアリストテレス、ラカンに至るまでの長い哲学史的知識が必要とされるかと言うと、それはドゥルーズの場合のようには必要ではない。というのも、この本の基本形式として、ある数学的「観念」を形式的に定義したのち、それを他の哲学者、あるいは政治的・美学的トピックを解釈する際に用いる、という、形式→解釈→形式→…という一様な連鎖があるのであり、逆にある哲学者の通俗的理解を持つものが、それが例えばアリストテレス研究だ、などと思って読めば、それは誤読というものであろう。

バディウ自身による一つの「賭け」、は、所属(∈で表される)と包含(⊂)との決定的な差異である。包含は所属以上のものである。これは決定ではなく、詳細に検討される慎重な賭けであり、この部分を検討することは重要だろう。この差異自身が肯定されないと、この書のほぼ全ての議論が無意味と化す。確かに、集合は自分自身に属するか否か、という数学的な危機があった。周知のようにラッセルは、タイプ理論を考案することで、この危機を回避しようとしたが、しかしタイプの導入によってもこの困難が解決されないことが、また後に証明された(誰によってだったかが不確かで申し訳ない)。そして、バディウによる一つの決定は、数学、状況、あるいは自然的状況と呼ぶもの、それら一切は所属の記号によってのみ記述できる、ということを証するために、自己所属の禁止を決定することである、つまり: ¬(a∈a). (aは集合)。

またバディウの一つの貢献にして今一度検討されるべきは、「名」の集合論的議論への導入である。「名」とは何か。例えばそれは何らかの指示対象を既に持つ「記号」とは区別されるであろう。形式論理学的、あるいは統語論的には、その記号がどんな指示対象をもつか、はどうでもいいことである。だが、統語論におけるある記号(束縛された変数)を持つ式が意味を持つかどうか、そのことを点検する必要性のために、タルスキから連綿と続き未だ未解決に留まる、意味論、限定すれば「真理」についての果てしのない議論が交わされてきたのである。その点では、バディウは意味論的議論を少しもしていない、あるいは回避している。バディウにおける真理とは、意味論的意味での真理条件の議論とは全く異なる、出来事に関わる概念だとされる。

例えばバディウは、空の固有名として、Фを導入する。ここから既に、議論は存在論(空)と数学(Ф)との間の錯綜ではないのか、ということを検討することが要求される。一方でバディウは、空を、伝統的な無についての形而上学の文脈で使い、他方ではそこになんら他の要素が属さない数学的集合として扱う。このような危険は、この著の至る所に見られる。例えば、介入、忠実性、強制、真理、主体などといった諸観念が、一方では形式的に精緻に定義される一方、それがマラルメや他の哲学者を解釈するときに使われるときには、日常的・直感的な使われ方をする(私的で稚拙な例で恐縮だが、極端に言えば、ある夫婦間で妻が夫に、「私のプライベートに介入してきたでしょ!」という場合に使われるような意味での、日常的な使われ方)。

数学と哲学との混合、あるいは正確には、哲学による数学的概念の誤用、これを指摘する作業は、古典的にはソーカルの仕事が有名だが、今更数学者の方から、バディウの数学的概念の使用が正当であるかどうか、を点検する必要はあるまい。はっきり言えば、その仕事は数学者の眼中にないのである。彼らには彼らのやるべき、他の膨大な専門的仕事がある。かといって、例えば哲学者が、バディウの数学的装置の使用の正当性を、点検するだろうか。それは、「バディウ研究者」には必要な作業かもしれないが、哲学的面白みのないものであろう。

結局、バディウは何を成したのか。例えば現代思想2018年1月号で、ルーベン・ハーシュが批判しているように、リアリティを捉え損なっている、と批判することは余りに短絡的で素朴であろう。バディウの議論は、ルーベン・ハーシュ自身も書いているように、超越論ではない。現実を規定するものでもないし、況や現実を構成することでもない。これまたルーベン・ハーシュ自身が書いているように、バディウの政治論や美学的議論は、バディウ存在論の「例化」なのである。そして例化とはもちろんプラトン主義を含意する。それは現実にコミットしない。それは一つの特殊な、かつ包括的な研究であり、現実を構成するなどというドゥルーズ的傲慢ではないのだ。省察36におけるクライマックス、すなわち「識別不可能なものと決定不可能なものの究極的な接続」という帰結と、そこにおいて、主体が決定する主体として到来するという幸福なエンディングは、哲学的カタルシスをもたらすものだ。

最後に、私個人のことについて触れる。この本の完訳以前から、私はL’Être et l’Événement,を、原著で読もうとし、何度も挫折してきた。その理由は、「介入」の議論あたりから、内容の難解さが増したように思え、またマラルメという節での、非哲学的ジャーゴンの多用に苦しめられたからである。今回の訳について言えば、概ね肯定できる。例えば、”existence”を「実存」と訳したのは、勇気ある決断であり、確かにこれによって遥かに理解が容易になった。もちろんそれには辞書的にも「実存」という意味はあるのであるが、時代や内容を考えて、そう訳すことは、私には躊躇われたのである。他方で、”consistant”ないし”inconsistant”をそれぞれ「整合的」「非整合的」と訳したのも、訳者の苦悩が訳注として現れているが、私もこの訳に悩み、当時は思い切って「実体的」「非実体的」と訳した。大分ニュアンスが変わることだろう。(織田理史)

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