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執筆者の写真Masafumi Rio Oda

メディアアートのモノ化、への内在的批判

私はここ1,2年ほど、PCやiPadといったデバイスを、他の物と存在論的に同等に扱う「メディアアートのモノ化」というパフォーマンスを実践してきた(画像は、ダンサー・パフォーマーの藤田恵理子とのシアターΧでのパフォーマンス)。しかしながらその実践のうちで分かってきたのは、さしあたり、PCを物として扱う、と言っても、その物質に固有な価値故に、あるいは脆さへの考慮故に、その扱いには特別な配慮が求められる、という当然のことだ。これは、PCのデジタル的な本質と密接に相関した扱いの方法なのであって、従って、PCの単なる物への還元は、この扱いの意識によって妨げられ、李 禹煥の言う出来事の世界の開示もまた不完全となる。しかし、この還元不可能性は、明確に還元不能なのであり、だから扱いの方法を、あるいは扱いの方法論を別に模索しなければならないのである。それは、物にはその本質によって扱い方が変わるという一般的法にも従うし、出来事としての物には単一の扱い方などない、言い方を変えれば、物を出来事化するにはその物の差異に応じた扱い方がある、という認識に至る。


出来事としての物の世界は、こうしてフラットではさらさらなくなり、本質、種差の存在とそれに基づく開示方法が探求されねばならない。もし、この開示方法が多様である、という認識に留まるべきでないとするならばー、開示方法は限定されねばならず、それにはカテゴライズという方法が有効である。しかしそれは、種と個との接続を復古することになる。カテゴライズ、つまり分類によって開示方法を変える、このことが、個をしてその自律をも妨げるのであるがーそれを忌避するならば、開示の際、それによって開示の方法を変えるという当の物の本質は、さしあたり神秘的な本質直観によって捉えられざるを得ない。しかし本質直観は、内在化作用によって神秘性を剥がされうる。


内在化作用は、超越の克服であり、その限りで超越という神秘性の克服である。内在化作用は、存在から独立した作用であり、その限りで固定した主体を持たない。それは、膜の外から膜の内への、非暴力的な、実在の単なる移行の関数であり、記号もコードも要さない、実在の操作に留まる。それは、そのようにして、他と他を隔てる実在的な、あるいは神秘的な何かを無効にする、他者の克服作用でもある。この文脈では、物の本質は、一切コード化を経ることなく、内在化作用の主体に移行するのであり、そこで、超越の問題は、アクセスの問題ではなく、ある内在における異質なもの同士の関係とその帰結との問題に移行する。主体は、物を手許に持ち、しかもその本質を「持っている」。本質から、その扱い方を推論することが、物を使える状態にする、物を使うことにおいて開示する、ということである。


このことは、日常的な交渉で常に行われていることであり、従って物の出来事的開示などではさらさらなく、物の日常的な使い方を、パフォーマンスという非日常において開示する、ということを意味するのである。それは、有名なデュシャンなどのセンセーションとは全く逆の方向を向いている。織田のメディアアートのモノ化、の内在的批判は、同時にデュシャンのルネサンスの内在的批判でもあるのだ。(織田理史)


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