ブラシエらの目指す「諸超越から成る超越」あるいは「諸超越から成る非ドゥルーズ的多様性」の実在論は、根源的内在性を大文字の一として措定する非-哲学とは合い慣れないが、しかしブラシエは少々強引にも、非-哲学を己の哲学に積極的に取り入れようとしている。
ブラシエ自身は、あらゆる実在を物に還元するという強いフラットな存在論よりはやや複雑な、ラリュエルの内在性とバディウの無で-あることとの接合から導かれる、思考と存在の非相関的・非総合的一致ということ自体を実在とみなすことで、超越論的差異及び相関主義を避けようとしている。
ラリュエルの、根源的内在性と「ひと」との同一視に対するブラシエの批判は、比較的ビビッドである。「私は最終審廷において根源的内在性と同一であると主張すること、あるいは私は実在に従って思考しており、また私の思考は実在によって最終審廷において決定される、と主張することは完全に一貫しているかもしれないが、そこから...私は一としての実在である、ということは帰結しないのである。」(NU136)このラリュエルの、「過酷なまでに唯我論的な同一視」に対して、ブラシエは「自らが、本質をもたないある実在に従っていると考えることは、自らがあれであるよりむしろこれであると考えることを意味しない。ある物でなく一人の人間存在である、と考えることを意味しない。自分自身を、無それ自体を開くある非整合的な実在に従っていると思考すること(すなわち自らの思考を実在の媒体とすること)は、自らが、空虚という最小の整合性すら欠いているある最終審級と同一的だと考えることを意味する」という拡大された主張を展開する。(NU137)
ラリュエルの内在的な与えられたものは、彼がいかに一方向性を強調しても、既に存在する諸哲学を、最終審廷においてマテリアル、諸アプリオリの状態に還元し、それが内在的な大文字の他者となる。このことが超越論的循環、と、彼自身が呼ぼうと、あるいはそのように難詰されようと、これは否定できない事実であると思われる。彼自身は、一方向性と同時に、「最終審廷」を媒介した哲学の非-哲学的「双方向性」を強調することで、非-哲学における大文字の他者を脱超越化している。しかし、実在を「ひと」とするのは、あるいは実在の根拠を「ひと」とするのは、哲学的、あるいは学問的に妥当であろうか。どのように証明するのか。それは我々がそれであるところのもの、事実、すなわち、(既に)与えられたものなのではないか。ここで実在に関する問題が、あるいは実在を哲学的に記述するという問題が、再発生する。またラリュエルは、実在以外の何物でもないものを経験する主体として、科学的主体、一-における-ヴィジョンなどを挙げている。しかし私の場合は、「常に既に作動している思考」を措定することで、つまり与えられたものとして思考を取り扱うことで、ラリュエルにおける人間を置き換えているが、この「我思う」を根拠とすること、あるいは我を消去して「思う」を根拠とすること、これは自明か。その自明性は、現象性に基づくのであって、思考の概念的定義ではない。現象性、現象から、存在論への移行が、ひとつの決定であり、それこそが最終審廷における決定なのかも知れない。最終審廷における決定、それこそが現象からの永久離脱であり、存在論的思考を定義するものである。
もし対象を、定立するのでなくフィヒテのように主体から引き出す、という戦略を取らないならば、反省・反射・複製(主体を欠いた/主体以前の反復)といった形での対象構成が考えられる。それをラリュエルは、「非-独断的反省」と呼んでいる。
ラリュエルにおける、現代哲学の診断と、非-哲学の定立は、未だ相関している。非−哲学が哲学のジェネレーターとして捉えられる場合、つまり哲学への言及なしにそれを語ることが出来ない場合、それに「非」という接頭辞を付けることは妥当か。「メタ」及び「プレ」では決してない、という必然性はどこにあるか。それは、「哲学と非-哲学」の最終章、「非-哲学的開始」で精密に論じられる、非-哲学の一方向性と哲学の非-哲学的-双方向性との循環なのであって、ラリュエル自身はこの議論を複雑化・細分化することに終始している。
実在(についての思考)の実在を考える。これは、実在についての俯瞰的視点であり、絶対的視点であるが、それ自身は実在であると主張していないから(あるいは思考のエコノミーであるから)、最初の実在についての思考のうちの一つではない、とみなせることから、相対主義批判は回避できる。しかしながら、ライプニッツのモナド論から神を消去してもなおも残る、諸モナド(諸々の独断的実在論)の俯瞰はそれ自体、実在でない、というならばやはり奇妙にして相対主義的な循環であろう。そこで、ラリュエルのように、絶対的実在の措定から始めることは、そしてそれが超越論的であるがゆえに神学的でない、ということは、非常に有効な非−哲学の一つの側面と思われる。それゆえ、ラリュエルの理論は強力な実在論であるが、私の非実在論と両立し得るとすれば、それを認識論、つまり実在論についての認識の理論に変えてしまうことだろう。認識論化されたリゾーム、「貫入」概念の議論は既に以前に別の場所で詳しく展開したところだ。各セリーはそれぞれ、実在についての哲学を表し、またこの認識論的モデルにおいて、「ステレオタイプ」概念をも定義した。これは実在についての議論ではないので、認識が大文字の一から生じる、またその大文字の一がひとである、と措定することへの、実在論的・非相関主義的批判は的外れである。認識論を、ひとから始めないのであれば、それは空疎である。「ひと」という実在は、それが哲学的に明らかにされるものではなく、認識論が成り立つための条件であるから、与えるしかないものであり、なおかつ事実として与えられるしかないものである。この、仮定と事実の一致が、非-哲学の前提にある。さらに、この私あるいは我々が、この大文字の一、ひとに「成る」必要がある。しかし、私は私の記号に成れるのか。バディウの反論を回避できるか。あるいはここにあるのは、根源的現象と、フッサール的な超越論的自我なのか。この記号と存在の分裂は、非-哲学の主体云々以前に、登録されてある形而上学的事実である。
もし私のリゾーム認識論を非-哲学に接続するとして、ラリュエルの哲学的野望、例えば諸哲学を単なるマテリアルに還元する、ということは、その接続から注意深く分離されねばならない。私の議論は非-哲学である必要がない。非-哲学はただ、リゾームを俯瞰する存在に関する議論に無理がないようにするために(相対主義との批判を回避するために)、参照されるだけである。
「我々はひとである」の非自明性、「我々は物である」の非自明性。前者は人間了解に留まるので、人間存在者分析から、人間とは何かを明らかにすることは出来ない。我々がひとでも、物でも、またその両者でもある、という事が、自明的に言えないのであれば、「我々」とは何ら明らかにされることがない。しかも出発点として「我々」ということも了解でしかないとすれば、我々を分割することで我々を説明することが望まれる、その我々が論じ得ない。「我々」は何も指さず、むしろ内在・外在の区別以前の、純粋な現象、意識現象から受動的に構成される、非一貫的な内在と外在の区別こそが、単なる純粋な現象から区別される何ものかを構成するが、それは既に-定立されている区別である。思考、区別の思考が、常に既に作動している。この「思う」ことが、自我と存在とを分割している。しかし、常に既に、思考が定立されている…それに先行する何かによって。このグロテスクな絡み合う循環は、何か哲学的なものを、了解に過ぎないものと関連付けたり、等値したりすることから生ずる。私が自分の哲学を、了解はおろか実在からも一切切り離した理由の一つがここにある。(織田理史)
※NUはレイ・ブラシエ著のニヒル・アンバウンド、数字は英語原文のページ番号。
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