これから、複数に分けて、「精神」というある意味学問的には使い果たされ、他方で非学問的な「スピリチュアル」という語でもって今日的観を呈している、概念について論じる。
ちなみに、私の思想において、「精神」と「思考」とは厳密に区別される。「思考」については「クロストーク7号」で詳論したので、そちらを参照されたい。
音楽とは、一般に何なのだろうか、それは加速している物理学等の科学や、資本主義と、その閉塞の感以外にどう区別されるのだろうか。
科学が恒常的な進歩を示しているように思えるのは、それが絶対的他性をその根拠としているからである。(「クロストーク7号」で別に論じた)純粋思考の永遠回帰すらも、根源的な他性、二元性を立てた上で、その他者たる存在としての存在を永久追放した。ここで、科学が単にその根拠を絶対的他性、言い換えれば存在としての存在、すなわち実在に置く態度(仮定)をもってそう呼ばれるのであれば、音楽、文化、その他、他性によってその時間性と歴史性、歴史的発展を示してきたものは、思考と、そして思考としか区別されない、プリミティブな科学と定義されることが適当でない理由がない。
他性、あるいは仮定された実在は、さらなる「何かの理由」(超越の超越、あるいはそれを避けるならば何らかの偶然性を導入した超越論的装置)によって寄せ集められ与えられることで、まずもってフラットで中性的な、存在者を構成する、としてみる。ここで、もし構成される存在者が、各領域に特殊的に対応するならば、その「何らかの理由」とはその理由の特殊性と相関した神の複数性である、と論じることもできる。しかし、そもそも思考を論じた際((「クロストーク7号」)に、実在について語ることは出来ないと断じる態度をとった。ここで、実在に言及するまでに譲歩することで科学が語られるとするなら、超越の超越、すなわち実在の理由について語ることは出来ないとすることは、その最もラジカルな意味で、認められるように思える。思考は、超越に対して無関心なので、超越の超越に対して何の態度も取らない。だから、科学においては、超越の超越、ないし超越の理由を措定するのでなく、「大文字の他者」の仮定によって、諸超越を一括するのである。
ここで、科学における永久ー自動運動は、思考の場合と違って、大文字の他者との関係で語られることになる。そして、大文字の他者から与えられるが、大文字の他者には寄与しない、あるいはそれ自体何らかの他者、実在を産出しない、という非ー超越論的態度が徹底される。
また、経験科学ならいざ知らず、あるもの、時に自分自身を、「他者とみなす」という操作・態度が重要だと思われる。つまり、常に己自身の内在に、外部を持つ、ということである。それは常なる新しさの受動である。ではこの受動と、それから構成される存在者とは、科学にとって何なのか。対象なのか。それらはまさに当の科学の対象となるのであって、その科学が検討し、扱いうるマテリアルなのである。
どの科学か、という、科学それ自体の差異化の問題があるが、ある定立的な科学があって、それが対象を決定する、というのではないであろう。思考の場合と同様、科学の全体の営みは、アルゴリズム的なのであるが、受動という完全に出来事的・外在的な新しさが、差し当たり一般的経験対象として、解釈されないまま、科学の領域に蓄積していくのである。だから、科学とは、何もせずにいれば数が膨れ上がる未解釈の新しさに圧倒されているのである。良い解釈によっては、それらの膨大な対象を、一括できる場合もある。そしてこの新しさとは、局所的・大域的な区別を持たないから、(恐らく加算無限個の)諸々の主体によって常に蓄積されていくのであるが、常に既に在る(恐らく有限の)解釈の主体によって、多くはトリビアルなものとして、科学から消去されているのである。
今まで論じたことは、現象学的な「大文字の他者」「他性」という使い古された概念の使用や、科学における不可知論的な態度によって、真に今日的な哲学という印象を持たれないかも知れない。
しかし、あくまでテーマは「精神」であり、そして「精神」こそが科学の主体である、ということを何度かに分け論じる積もりである。(織田理史)
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