エリー・デューリングとは全く異なる主張ではあるが、極めて西欧的なアートの考え方の極端として、ダントーを数えることができる。まず「アートワールド」、という何らか統合された空間は、たとえそれが「開かれている」ということによって主張が弱められていようとも(実際この「開かれている」ということが意味していることがまったくはっきりしない)、今日的ではない、あるいはデューリング的ではない。デューリングは自らを新しいパースペクティヴィズムと呼び、それによれば全てのパースペクティブを統合する何かは存在しないからである。そこで「アートとは何か」という問は、本質主義者ダントーにとって、アートワールドの住人が共通してアートと認めるもの、とは勿論ならないはずである。アートが何かが明らかにされていない状態で、アートワールドを定義することなどできないし、アートワールドの住人を定義することも出来ないからだ。しかしダントーはそれを愚かにもしてしまうように一見見える。そして、それ以上の大罪がある。
ダントーは、アンディ・ウォーホルの「ファクトリー」製のボックスと、外見上は全く区別がつかない工場製のボックスとの差異は何か、という問いを立て、その回答として、「そこに眼に見える差異が何もなかったのだとすれば、そこには眼に見えない差異がなければならなかった」という(「アートとは何か」、48ページ。以下「WAI 48」のように略記)。そしてその眼に見えない差異は何かと言えば、ダントーによれば、何らかの「意味」であって、アート作品は「受肉化された意味(embodied meanings)」である、という(WAI 48)。さらに、「アート作品は物質的な客体であり、その特質が意味に属するものもあれば、そうではないものもある。鑑賞者がなすべきは、意味を担っている特質を解釈することによって、その特質に受肉化されている意図された意味を把握することである。」(WAI 49)。この議論で問題なのは、アートを単なる物理的対象と区別する何等か非物理的なものがあることまでは認めるにやぶさかでないにしても、そこでは、それが作者によって「意図された意味」に束縛されている、ということである。つまりその作者の意図を汲み取れなければ、そのアートをアートたらしめる意味を捉えることに失敗している、ということになる。しかしこの失敗が、物質的対象とアート作品との識別に失敗した、ということを意味する、とはダントーは勿論認めることが出来ないであろう。第一、物理的対象とアート作品の視覚上の差異ない状態で、ある一見物理的対象が与えられたとき、それを観るものは、まだ鑑賞者でも単なる感覚的認知者でもない、つまり彼が鑑賞者となるためには、彼は既にそれがアートだ、ということを認識していなければならない。彼は既にアートワールドの住人でなければならない。従ってこのダントーの議論には素朴な循環があるように思える。従って、ダントーはこう言うべきであったであろう―「もしあるアートが与えられるとすれば、そのアートが与えられたことによってそれを観るものは鑑賞者となり、そのことでそのアートに物質的特徴以外の意味を発見する。」 これは、まずダントーの強い本質主義、つまりアートの意味は作者の意図である、ということを退けている。そして勿論、こう言うことによって、ダントーは「アートとは何か」という問いに答えることに失敗している。しかし勿論、存在論的な次元で、「アート作品は受肉化された意味である」と定義することには問題がない。ダントーは、感覚的次元の視覚的識別不可能性のある例から、この定義を引き出したのであり、従って認知的状況一般を仮定して(ダントーの例を一般化して)、それを反例としてこの本質主義的定義を非難することは誤っている。認知的状況(識別不可能性に関する一般的状況)は定義の本質性に関わらない。またダントーの強い本質主義(アートの意味は作者の意図である)を減算したとしても、それは機能する。しかしその場合、「意味」が「作者の意図」でなくなったことで、意味とは何かが全く不明になる。従って、あくまでダントーの議論にまともに付き合うとするならば、我々は「アート作品は受肉化された意味である」ではなく、「アート作品は受肉化「する」意味である」と言わねばならない。そうすると、全てが変わる。アートは、観る者がそれに意味を受肉したとき、アートとなる。そしてもちろん、この言明は、「アートとは何か」について何かを言ったことには全くならない。従って、アドホックな条件群を模索しなければならない。
ところで、あくまでダントーのプリミティブな定義に従うならば、「アート作品は受肉化された意味である」ということを強化するアドホックな条件が、ダントーにとっては、「うつつの夢(wakeful dream)」つまりは共有可能性なのである。「わたしはアートを「うつつの夢」と定義する。」(WAI 60)うつつの夢は、まず目覚めていることを要求し、そして次に、「夢は数々の外観から構成されるが、それらは、それら自体の世界にある事物の外観でなければならない。」そして「うつつの夢は、共有することができるという点で、眠っているわたしたちを襲う夢を上回る長所を備えている。」(WAI 60) しかしこれは、つまり共有可能性という発想そのものが、まず「作者によって意図された意味」ということにアート作品を束縛し、しかもそれに異議申し立てをすることを禁止する暴法なのである。ある本質性、すなわち「作者によって意図された意味」が存在する。これは一義的な意味である。しかも、それが共有されるときにのみ、その共有の空間にいるものだけが、当の対象、ないしはダントーはダンスの例も挙げているが―をアートとして識別できる。これは、ある意味では「うつつの夢」のような、その都度のアートワールドを構成する、ということではあるであろう。しかしもちろんそれは、徹底的にパースペクティヴィズムを排除する。パースペクティヴィズムを排除することの最も主要な困難は、まさにダントーがそうしているような行為の可能性、すなわち「作者によって意図された意味」の外で、その作品のうちに、何らかの新しい意味なり認識なりを獲得することの可能性を、徹底的に排除することである。
ここまでが第一章の内容なのであるが、こう把握したところで、「酷い時間浪費だった」という感じに襲われ、それ以上を読むのをやめた。それでも、哲学とアートに関わる身として、第3章 「哲学とアートにおける身体」というタイトルは無視できないので、ザっと読んだ。そこで参照されている身体論が何かと言えば、デカルトとライプニッツのそれであり、散々リチャード・ローティなどによって既に決定的に攻撃されていた「機械のなかの幽霊」の議論であり、しかもダントーは、「心は身体から論理的に独立しているというデカルトのアイデアを取り上げたい」(WAI 108)と宣言してしまうのである。時代から言って、ローティの議論を知らなかったということは勿論許されず、しかもローティの議論に対する何らかの議論があって、デカルトのモデルを取る、というのではなく、それに一切言及しない、というのは、単純に教養を疑う。そして身体とは、幾分神秘的である、という直感に関しては、私はもちろんダントーに共感するが、そこでの参照項はデカルトではあり得ない。なぜメルロ=ポンティの身体論がないのか。
ところで、このダントーの論について、こちらも褒められた論者ではないが幾分マシな客観性を持ち合わせた(それゆえオリジナリティを決定的に欠いた)北野圭介の「ポスト・アートセオリーズ」という本がある。最近出た。
北野はアーサー・C・ダントーの「芸術の終焉」という論文を、パラダイム・モデルの一つとして取り上げる。それによれば、ダントーにおいては、「模倣説」と「表現説」の歴史的区別が指摘される。それによれば、写真や映画というメディア技術以前は、「芸術は世界の似姿を実現している」という模倣説が主たるパラダイムであったが、メディア技術以後は、「知覚的等価物」を実現するという営為が写真に映画に取って代わられるがゆえに、絵画や造形芸術は世界の模倣である必要がない、作家性の表出としての表現説へ移行した、というのがそれに続くパラダイムである(北野、25-26)。しかしながら、心の哲学による「内面」への素朴信仰への懐疑的な議論の進展や、またそれによっては「そもそも個人の枠においてアプローチされた芸術の内容が、なぜ人類史(あるいは少なくとも西洋芸術の広がり)につながるのか、まったくもって説明されえない」がゆえに、表現説は失効しつつある。ではそれに代わるパラダイムとは何かと言えば、「芸術なるものは、自らの有り様を自分において探求すべし、という自己を自己によって理論化するという営為(self-theorization)の段階」という「自己理論化」の営為である(北野、26-27)。
そこで、ダントーが「芸術の終わり」を、芸術をめぐる共通理解が焼失した事態として描き出すならば、なぜ「芸術とは何か」という問いを改めて立てるのかと言えば、複数の関与者(作家、媒介者、受け手)が作り上げる共同体の、「芸術とは何か」についての何らかの合意が成立する、という可能性をダントーは肯定するからだ。しかしダントーは、それ以上のことを、「芸術とは何か」という問いで意図していた。「芸術作品には、物質的な組み立て以上の何かがある。何か。観る者が受けとめる「意味」と呼ばれるようなものではないかとダントーはいう。」(北野、29) そしてそれがナイーブな主張でないのは、北野の解釈によれば、「何らかの物体を基点に、作る側と受けとめる側の間で「意味」が往還する、その往還がなんらかの共同体において安定的に推移している、そういう対象がアートである、そうダントーは論を構えた」からである(北野、30)。
この「意味往還」の議論について、北野による次のような代弁、「その往還を支える芸術概念はすでに「消尽」してしまったのではないか、アートワールドもなくなったではないか、ダントー自身がそういっていたではないか」という疑問に、まともに向き合う必要があるであろうか。なぜなら、ダントーの定義は、アートの一般的定義であり、その定義を構成している部分にアート的な概念が入っているはずがないからである。それがいかに抽象的な定義だとしても、定義としては形式的に機能しているので、そういった疑問にまともに向き合う義務はダントーには一切ないように思われる。
しかしながら、ダントーは律儀にも次のようなポストモダン的な回答を与える。「「芸術とは何か」についての定まったコンセンサスをもはや前提にできない。制作者にせよ観る者にせよ、その都度「芸術とはこうである」という賭けのようなコミットメントを折り込みながら実行しなくてはならなくなった」。さらに「芸術実践は、芸術上の自らの営為の内容だけではなく、そもそも芸術とはどういうものであるのかというメタレベルからの問いもまた同時に提示し、そもそも自らが住まう社会において、世界とはなにか、芸術とはなにかを、同時に考察しなくてはならなくなっている」。そしてそこには、「人間の知をめぐる状況、その(政治経済的、自然科学的なそれを含む)地場自体が大きく変容したから」でもあるという、大きな歴史論的なまなざしが作動している、と北野は指摘する(北野、33-34)。
こうした一連の考察から結果する、「「意味」を求めてひとびとが思いをめぐらし、解そうとすることは間違いなく、そうした解釈の行為が群れをなし集まって、ひいてはそれを芸術作品と呼ぶほかないという場ができあがっている」という帰結(北野、38)は、なんと面白みがないものであろうか。しかしながら、北野がさらに踏み込んで、「何が(芸術上の)対象なのかではなく、何をもって(芸術上の)対象といえるのかについて、わたしたちは語りはじめなければならない」と「メタ実在論」の必要性を説き、「「対象」という言葉の軌道をしっかりと掴みとっておかなければ」ならない、というとき、それは関心の対象になる。
北野は、ダントーよりも後の世代であり、昨今の思弁的実在論にもある程度通じているので、ダントーよりはマシな論者であるが、しかしそれは全く別の意味で「酷い」。それについては別に書く。
それとは全く別の系譜―メイヤスーの師匠、アラン・バディウの「非美学」の精神的後継のエリー・デューリングもまた、全く別の意味で酷い。まず、その力がないならば、理論家がアートについて語るな。理論家は思弁的な遊戯にふけっているだけで満足しろ。実在や歴史、アートにコミットするな。アートを理論家が束縛するな。「美学者」とはなんと愚かなカテゴリーであろうか…そういったことを、この本や北野の書、そしてエリー・デューリングの論文を読んで思った。
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