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「了解」とはどのような認知的能力であるか―セラーズ『経験論と心の哲学』を参照して

更新日:2021年11月17日

ハイデガー『存在と時間』において、「我々は存在している、ということを了解している」と現存在分析に進むのだが、しかしその「了解」とは、そもそもどういう事態なのであろうか。この記事ではセラーズの議論を参照しながら、それを明らかにしたい。


セラーズはその『経験論と心の哲学』(邦訳参照。以下EPと略記)の冒頭において、既に「推論すること」と「見ること」との間の相違が存在することを否定すること、を仄めかす(EP3)。セラーズは、彼が否定することになる所与を、センス・データのみに限定せず、「多くのもの-感覚内容、物理的対象、普遍、命題、実在的結合、第一原理、されには所与性そのもの」をも、所与に還元する(EP3)。ここには、所与と、それ以外のものとの区別が設定されており、所与から除外されることになるのは、恐らく何らかの所与される方の、主体ということであるだろう。「今日『所与性という観念全体』を攻撃する多くの哲学者......は実はただセンス・データのみを攻撃している」と指摘したうえで、セラーズはまずセンス・データへの攻撃に取り掛かる。それは「所与性の枠組み全体に対する一般的な批判の最初の一歩」でしかないとしても、しかしそれの固有の特徴を批判することが、セラーズによって「〔センス・データを〕物理的対象や現れるという関係のような他の事物に移しているに過ぎない」のであれば(EP4)、そのセンス・データ攻撃こそが、まずは最初に我々の関心事となる。とは言え、我々はそもそもセンス・データ論自体には関心がない。セラーズによれば、「センス・データであること」は「感覚内容が持っている、関係に関わる性質」と特徴づけられ、より一般に「視覚的に感覚することや直接に聞くことは感覚するという作用がもつ、関係に関わる性質」と規定している(EP6)。我々がセラーズに期待するのは、次の点だ。所与が神話であること。従って、感覚と思考の間に、架橋不可能性が存在すること。さらに、セラーズを超えて、「了解」概念を吟味し、もしかしたらセラーズの議論を援用して、それと思考との紐帯の幻想を暴くこと。


さて、セラーズのセンス・データ論攻撃のある段階において、例として「ジョーンズはその木が緑色をしているを見る」という言明が、「ジョーンズの経験に命題的主張を帰属させかつその主張を是認している」という主張を肯定しようとしている(EP37)。ここで是認とはテクニカルタームであるが、まず我々にとって大事なのは、ほぼ無条件に了解されている、「経験一般」に関する身分と、またもし経験という事態が存在するのであれば、そこに命題的主張を帰属させることが、肯定されようとしていることである。また、それは、セラーズによれば、真理に関わる事柄であり、従って彼が「是認」と呼ぶ、「ある経験はあることが事実であるということを見ることである」という事態が、「その経験に意味論的な真理概念を適用すること」なのであるが(EP39)、我々の関心事は、「経験一般」を条件づけて、またそれと「了解」概念との関係を明らかにし、もしこの了解が、経験ということに含まれるのならば、そのときセラーズが主張する経験への命題的主張の帰属という事態が、了解に何らかの命題的なものを含ませて、そのことで(我々の意図に反して)了解から何らかの概念的認識を導くことが可能であるのかどうか、ということである。


さてとは言っても、セラーズが「是認」という概念を使って、経験と呼ばれるものを規定していく手続きは、易しいことではない。「『Xは時間tにおいてSにとって緑色に見える』と述べることは、実質的には、人がそれが含む命題的主張を是認する用意があるなら、時間tにおいてXが緑色をしているのを見ると性格づけるような種類の経験をSがもっていると述べることである」とセラーズは、既に経験を、命題的主張がもし含まれる場合には、規定してしまっていることになる(EP40-41)。さらに、セラーズは、「緑色に見えるという概念、すなわちあるものが緑に見えることを認識する能力は、緑であるという概念を前提しており、後者の概念は対象を見ることによってそれらの対象が何色をしているのかを見分ける能力を含んでいること―そしてそれはまた、ある対象を見てその色を確かめたいときにはその対象をどのような条件におけばよいかを知っていることを含んでいることである」と述べることによって(EP42)、ある認知的認識を得る際にはその概念を前提している、と主張する。これが、センス・データなりなんなり、所与からの概念形成のプロセスを論じることに対する反対の姿勢であることは明らかだ。それは、「緑に見えるが緑色をしていることがそれに還元されうるような概念である」と規定することにおいて(EP43)、論理的原子論の基本的前提との差異を強調する。しかし、その後に当然続く、これらの概念がいかに形成されるかに関する議論には、差し当たり我々は興味がない。


セラーズは、我々にとって関心事である、「経験とは何か」ということに関して、一つ注意的な限定を与えている。それは、「する/される」という経験の両義性について注意を促すものであり、それは端的に、「確かに、あるものが私に赤く見えるという事実はそれ自身経験されうる。しかし、それら自身は経験することでない」と表現される(EP56)。しかしこの注意、より適切には、「経験すること」という表現を用いることに対する警戒は、セラーズの独自の議論の文脈のうちで展開されているものである。私の文脈で、「経験する」ことと「経験される」こととの間に、区別を設ける必要性は、今のところ生じない。「経験すること」と「経験されること」の間の区別は、明晰である。しかし依然として、「経験」とは、認知状況を超えて一般に何であるかが、センス・データ論攻撃においては、まだ不問に付されている。


他方で、もう一つの我々の関心事である、概念の身分及び非概念的なものから概念的なものへの(我々にとっては不可能である)移行について、セラーズは語っている。「普遍に関する現代の問題は、主として、個別の状況の反復可能で確定された特徴の身分に関わるのであり、抽象観念に関する現代の問題は確定可能な反復可能物を意識することがどのようなことであるのかという問題であるのと同様に、確定された反復可能物を意識することはどのようなことであるのかという問題でもある」とセラーズが言うとき(EP62-63)、セラーズが意図して「抽象概念」と言わず「抽象観念」と言ったかどうかは分からないけれども、少なくとも、抽象観念の形成が、確定可能な反復可能物を意識することであると述べることは、彼にとっては、「普遍に関する現代の問題」を扱う論者が、彼が「経験論の伝統」と述べるその伝統への、軽率な無批判にコミットしている、ということなのである。彼はすぐさまその経験論の伝統、すなわちロック、バークリ、そしてヒュームの議論において、それらの差異を論じながら、最終的にはそれらの差異よりも「彼らはすべて、人間の精神が確定された種類を意識する生得的な能力をもっていること―実際、われわれはそれらの種類を単に感覚や心像をもつことによって意識するのであること―を当然の前提としている」ことに批判を向ける(EP67)。これに対して、セラーズは対案を試みる。「経験の最初の要素をたとえば赤の印象と性格づける代わりに、ヒュームがそれらを赤い個物として性格づけたと想定してみよう〔...〕そのときヒュームの見解は、確定可能なものだけでなく確定されたものまでをも考慮に入れるべく拡張され、種類や反復可能物に関するすべての意識は、互いに類似した個物の集合と語(たとえば「赤い」)との連合に依存しているという見解になるであろうからである。」(EP68) さらに、ヒュームにおける印象の個物への置き換えに加え、セラーズは続けて、「意識の生起」をも含ませたヴァージョンをまず提示する。「この連合の形成が互いに類似した個物の生起だけでなく、それらが類似した個物であるという意識の生起をも含んでいるならば、確定された種類あるいは反復可能物、たとえば、深紅がもつ所与性は単にxはyに似ている、という形式の事実の所与性に取って代わられ、そして、われわれは反復可能物、この場合は反復可能な類似性、を意識する習得されたものではない能力に戻ることになる。」(EP68)。このバージョンは「単に神話の概念論的形態が実在論的な形態によって取って代わられただけ」であるがゆえに(EP68)、セラーズはそのヴァージョンを取らない。その後、すぐさま、この連合が、意識、つまり「xはyに似ているないしxはφであるという型の事実に関する意識によって媒介されていなければ」、「心理的唯名論」という立場に立つことになる、とされる(EP69)。この心理的唯名論によれば、「種類、類似性、事実等々の意識のすべて、簡潔に言えば、抽象的存在者についてのすべての意識は―実際、個物についてのすべての意識さえ―言語に関わる事柄」なのである(EP69)。この見解によれば、言語使用の習得の過程は、「いわゆる直接経験に関わる類、類似性そして事実についての意識さえも前提とはしていないのである。」(EP69)


この心理的唯名論の結果として、セラーズは二つの長所を挙げる。(1)感覚的反復可能物、あるいは感覚的事実を意識するという純粋な出来事が存在すると想定する誤りを避ける。(2)感覚と心像から意識という認知的性質が取り除かれることで、言語と世界との間の基本的関係が変わる。この言語と世界との間の新しい基本的関係によれば、「たとえば「赤い」とその存在が想定されている私的な赤い個物の集合の間ではなく、「赤い」と赤い物理的対象の間に成り立つものであることを認識する道が開かれる。」(EP69-70)


さらにこの心理的唯名論は、言語理論が、「「〔対象の〕現前の下における思考」の説明、すなわち、言語が非言語的事実に対してもっている根本的なつながりが示される場面に関する説明」にメスが向けられると、「きわめて「アウグスティヌス的」であることが判明する」と言われるが(EP71)、このとき、一種の形而上学的実在論が想定されていて(形而上学的実在論とは、自明ではなく、まさに「了解」である)、また「言語が非言語的事実に対してもっている根本的なつながり」が想定されていると現段階で見えるとすれば、我々は我々の形而上学の見地から、身構えざるを得ない。しかし、必ずしも、我々が構築を進めている理論が、了解から思考への繋がりをシャットダウンするその最中にあり、その参照としてセラーズを読んでいることを思えば、もう少しこの心理的唯名論の説明に忍耐強く従うしかないであろう。


セラーズはこの心理的唯名論において、概念と語とを区別することを強調するし、「「心理的唯名論」という語句の主要な含意は、言語の習得に先立つあるいはそれから独立している論理的空間の意識など全く存在しない、というものであること」と強調する(EP72)。ここでセラーズが、形而上学的実在論の批判でなく、言語の習得を含む、実在と概念(あるいは言語)との結びつきの理論である心の哲学の構築に向かっているように見えるがゆえに、我々との根本的な分裂が生じているように見える。そして、了解とは、他のいかなる認知的概念とも異なるような種類の、従って知識の獲得や観察報告、といった、形而上学的実在論的描像が、それが批判されることが目論まれようとそうでなかろうと、議論の下地として機能するような種類の認知的概念とも異なるような種類の一種の認知だとすれば、通常の認識論でことさら強調される外在と内在の(非-)区別を持たない、また前提しない、そういった種類の認知的概念でなければならないであろう。それは、形而上学的実在論を「例に取る」かも知れないが、あるいは形而上学的実在論を「前提すること」を例に取るかも知れないが、形而上学的実在論的前提を必要としない、フラットな議論であろう。もし了解すらも所与であるというならば、我々が思い描いているような了解概念をはっきりさせたうえで、それをセラーズの言う所与に還元する必要(義務)があるが、そのはっきりさせることにおいて、了解が単なる「描像」や「思考のイマージュ」といったものでないことがはっきりしするならば、従って了解概念が本質的に哲学的に新しいトピックであるならば、もはや我々はセラーズの議論に付き合う義理などないのである。


従って、ここで了解が、他の形而上学的実在論(批判)を前提する諸認知的概念と根本的な差異を持つことを明瞭にするために、非形而上学的実在論的状況を推定してみよう。従ってそこには、主体と対象との超越的関係が存在しないのである。主体が存在しないゆえに、「誰誰が了解している」という述語の使い方は出来ない(従ってそれは述語ではない)。端的に、まだ概念とも実在ともつかぬ、了解が存在しているが、それが主体を欠くからと言って、対象を欠く、ということにはならないであろう。というのも最初に否定されたのは、主体との関係における対象だからである。了解には対象がある。しかしそれは、了解がその対象の主体である、ということではないことを示すために、「ある了解は何々を対象とする」という事態が何を意味するのかを明らかにする必要がある。ここで形而上学的実在論を前提しないリスクとは明らかにそれによって哲学的語彙が非常に制限されてしまう、ということである。従って、ここで了解が何であるかを、そこで分析するところの事態が一切存在しないため、上でも言及した「形而上学的実在論を前提すること」を例に取ろう。そこで、通常の描像や、主体―対象関係、また豊かな事例や思考実験が取り戻されることになるが、しかしこの部分はあくまで非形而上学的実在論的状況のブラケット内に存在し、また役目が終えられれば破棄されるであろうものである。ここで、「知覚」「推論」「了解」の区別を取りたい。そしてそれら、特に前者二つは、セラーズの議論を含め哲学史的に膨大な研究が既存しているが、ここは形而上学的実在論的状況と想定されているので、可能な限りその原始的な形を敷衍しよう。まずこの素朴な世界においては、知覚とは、心の外に存在する実在を何らかの仕方で捉え、それを観念のような心的な存在に変えるプロセスである。推論とは、心的存在(それは観念、概念、また命題等を含む)から判断ないしは概念を導くプロセスである。この素朴な世界で、この人間は、知覚と推論だけで、整合的な知性的存在とみなされるであろうか。またこの素朴な人間は、その二つの能力だけで、この形而上学的実在論的状況における経験が可能であるだろうか。


セラーズに再び戻れば、セラーズ自身の心理的唯名論的主張として、「多くの知識をもつことなしには、語「赤い」の意味を理解すること―「赤さが何であるかを知ること」―はできない」とし(EP75)、また、セラーズが「所与の神話がとる形態の一つ」として批判している次の考え方すなわち「「知識を表現する」ためには、その言明がなされるだけではなく、いわばなされるに値しなければならない、すなわち、信じるに値するという意味で、信頼に値するものでなければならない。さらに......それらの言明はこの信頼可能性を伴う仕方でなされねばならない」という考え方を持ちだす(EP76)。ここでセラーズの議論上の重要事項、すなわちある事実の知識が、他の事実の知識を前提するか否か、ということはここでは問題にならず、重要なのは、この形而上学的実在論的状況下の人間が、整合的な知性的存在者となるために、知覚の存在と推論の存在の他に、さらに何かが必要である、ということである。知性的であるとは、単なる恣意的な感覚―推論存在者であることでなく、社会的に合理的であることであるとすると、この形而上学的実在論的状況という状況が社会の存在を全く前提していなくても、それが知性的であるためには、その言明は信頼可能でなければならない。何がその言明を信頼可能にするのか。それは、セラーズが批判する考え方によれば、まさに「所与」であり、所与の存在との結びつく仕方である(EP76-79)。さてしかしながら、セラーズはまさにこの信頼可能性という概念に関しては、肯定するのである。すなわち、「いかなる個別の事実......に関する観察的知識も、XはYの信頼できる兆候であるという形式の一般的事実の知識を前提している」という考え方を、セラーズは肯定する(EP84)。この信頼可能性に関する形式こそが、我々が「了解」と呼ぶもの、あるいは知覚と推論だけではカバーできなかった領域を生めるピースなのではないか。しかしながらセラーズと再び袂を分かつのは、この形式の「知識」が、セラーズにおいては「理由からなる論理空間」に存している、という点においてである(EP85)。「理由からなる論理空間」が要請されたのは、「XはYの信頼できる兆候である」という形式の「知識」が、それ自身その形式の「知識」を前提しており…といった無限背進を退けるためである。この無限配信を退けることは必要であるが、しかし我々の目的にとっては、それを理由からなる論理的空間という超越論めいた場所に置くのではなく、かえってそれを「形式」にしてしまう、ということの方が、存在論的コミットが緩和されるように思われる。信頼可能性は、セラーズが攻撃するように所与でもなく、またセラーズが肯定するように、知識でもない。「信頼可能性を有している」ということは、彼が整合的な知性的存在であるための必要条件であり、また従って、信頼可能性とは整合的な知性的存在の「形式」である、ということによって、新しく空間を導入する必要がない。何がその言明を信頼可能にするのか、という問に答えず、信頼可能性こそが整合的な知性的存在の形式だ、と言うことは、彼は、非整合的な言明をすることが形式的に禁じられている、ということを意味しているように見える。しかし非整合的な言明は、彼が信頼可能性の空間に存在する限り、可能である。ここで信頼可能性を形式とするということと、彼が信頼可能性の空間に存在するということとは、同じ事態を指し示し、それは新しい空間を導入したことにはならず、思考上の利便性に留まる。しかしこの形式としての信頼可能性が、セラーズのように「XはYの信頼できる兆候である」という明示的な形式を取らないとしたら、それは何かを言っていることになるであろうか。定義を試みよう。あるXという認知が彼にとって信頼可能である、ということは、それが所与から由来したにせよ推論から由来したにせよ、そのXの認知について、彼がその認知を有しながら、その認知から離れたり近づいたり、更には忘却することにおいて、その認知が一切変更を被らない、ということである。これが信頼可能性の、従って了解の形式的定義である。彼はこの認知が一切変更を被らないということを知っている必要はないが、しかしこの認知は、何らかの仕方で彼に常に働きかけねばならない。


「xが信頼可能である」が、彼がxを例え忘却しようとも、その認知が変更されることがない、ということだとすれば、まさにxが変項であるがゆえに、それは知識、概念、事実、体系…等であり得るし、またそれは対象ではあっても、生得的・習得的を問わない(習得すること、といううんざりするような議論に無関心である)。それはまた、忘却ということで無意識的な次元を措定する必要がない。つまり彼に対して、何らかの影響を与えていると想定する必要がなく、それが彼に在る、というだけで、それが了解という事態である。忘却とは単に、ある了解の対象が、彼の推論において、参照される機会がとても少ない、あるいはそのような機会がない、ということを指し示すだけである。


このxが獲得される仕方について、セラーズ、そればかりでなく多くの後続者が呆れるほど熱心に緻密な議論を重ねてきたのだが、xとは変項であるがゆえに、その対象を不問に帰すというのであれば、「あるものについての概念をもつようになるのはその種のものに気づいたからではない、むしろ、その種のものに気づく能力をもっていることはすでにその種のものについての概念をもっていることであり、前者が後者を説明することはできない」と論じることは(EP99)、了解という概念をまさに定義したいま、理解不可能な議論なのである。この形而上学的実在論的状況下の存在者の認知的在り方は、我々の了解概念の導入により、完成したのである。しかしながら、感覚と実在の交渉における複雑な議論から離れた領域として、セラーズが論理空間を導入したことは、思考を感覚とのアナロジーで考えることを否定する、という全く正当な議論にとって、意味がある。思考を独立した領域と考えるセラーズは、思考と感覚や感じとの同化を、「重要な混同」であり「誤った同化」と断じる(EP102)。さらにもし、了解概念が、我々はそうしなかったが、「自分が何を考えているかを知っている」ことであるとするなら、「われわれは言語的心像......をもっているにちがいないと想定すること、簡潔に言えば、「特権的接近方法」は知覚的ないし準知覚的なモデルに基づいて解釈されねばならないと想定することは誤りである」ということによって、了解概念を知覚的なモデルに基づいて解釈することは誤りである、とされる(EP103)。


さて上で定義された了解概念は、その定義に、形而上学的実在論的な二つの認知的概念、すなわち思考と知覚、あるいは両者の区別が全く含まれていないがゆえに、形而上学的実在論というブラケットから外に出すことが可能に思われる。その場合、上述の議論を少々修正する必要がある:知性的であるとは、単なる恣意的な存在者でないために、社会的に合理的であることであるとすると、その状況が社会の存在を全く前提していなくても、それが知性的であるためには、その言明は信頼可能でなければならない。「信頼可能性を有している」ということは、彼が整合的な知性的存在であるための必要条件であり、また従って、信頼可能性とは整合的な知性的存在の「形式」である。あるxという認知がyにとって信頼可能である、ということは、そのxの認知について、yがその認知を有しながら、その認知から離れたり近づいたり、更には忘却することにおいて、その認知が一切変更を被らない、ということである。これが信頼可能性の、従って了解の一般的で形式的な定義である。そこで例えば了解の対象がある概念だとしたら、その概念の意味が変化することは許されず、従ってその概念は、固定的である。もしある概念が固定的でないならば、すなわちその指示あるいは定義が変更されることがあり得るならば、それは了解の対象にはなり得ず、思考の対象である(これは新しい能力としての思考の導入である。上の形而上学的実在論的状況において使われていた思考とは異なるものであるのに注意) 。この意味で、特別な記憶と呼ばれているものは、優れて固定的であり、従って了解の対象となることができ、従って、記憶という何らかの領域そのものを抹消出来るのではないだろうか。忘却とは単に、ある了解の対象が、彼の推論、思考、あるいは心的なあらゆる営みにおいて、参照される機会がとても少ない、あるいはそのような機会がない、ということを指し示すだけである。しかし、こうして再び思考の対象になり得る了解の対象が、すなわちその意味が変更されることのあり得ない固定的概念が、思考に現れるとはどういう事態か。それは、暗黙の前提、ステレオタイプ、常識、そういったものとして「機能すること」ではなく(それは超越論的な了解の空間を予想させる)、「単に現れる」ということであろう。またそれらが固定性を失うことは、思考の対象になることによってのみ可能である、としよう。すると、原理的にはあらゆる了解が、思考において固定性を消失する可能性に晒されていることになる。しかし固定性を失った思考の対象が、了解の次元では、固定性を失う前の形で、残存し続けるということは全く可能である。またあらゆる思考の対象は、それが固定性を獲得すれば、定義上ただちに了解の対象である。


直感的には、日常的な次元において、思考は固定的概念のみを主に対象としているであろう。概念の場所を確保しない、というのは多分良識に反するので、そういった概念の空間があるならば、そこには固定的概念、そうでない概念が混在しているであろう。また、文脈によって意味を変える概念は、「そういう」固定概念であろう。思考だけが概念の固定性を失わせることが出来るであろう。ではむしろ、非固定的な概念とは何か、またその、「非固定的でありうる固定的概念」ではない、純粋な非固定的概念の存在は要請されるであろうか。明らかに非固定的であるとは、変項であることである。そして通常の思考において、それが純然たる「外部」を想定するにしろそうでないにしろー変項が存在しないということは不合理であると思われる。経験が常に何らかの変項を伴うならば、その思考において、ある固定的概念の固定性が失われることが常に可能であると思われる。(織田理史)

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