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アドルノ『否定弁証法』と私

更新日:2020年8月28日

アドルノの『否定弁証法』は、学生時代よりいつか読みたいと思っていた。今読むと、古色蒼然としたところはあるし、根本的に私の思考とは合い慣れない。以下、アドルノと私の対話の記録である(内容はかなりハードボイルドである)。*NDとはNegative Dialektikの略、数字は邦訳ページ数。


アドルノは、概念のうちに、それに反するものの影を、なんとか見つけようとしている。「概念のうちには、非概念的なものによる媒介がその概念の意味を介して生き残っているが、この意味が一方では概念の概念存在をも基礎づけているのだ」(ND,19)「概念の内容は概念にとって内在的、つまり精神的でもあれば、存在的でもあり、つまりは概念を超越してもいる」(ND, 19) こうした、概念における非概念的なものに、アドルノはまだ希望を見出しているのだ。それというのも「個別科学に強要されて哲学を一個の個別科学に退化させようとすること」が、「哲学の歴史的な運命の明白な表現である」ことを認めつつも、アドルノはそれをなおも否定したいからである(ND, 9)。そして、体系においては「認識に抵抗するもの」「非論理的なもの」が、その外部に存在することを希望し、それを「解きえぬもの」としたうえで、それを「こじ開ける思弁の力こそ否定の力である」(ND, 38)と宣言するのである。「この否定のうちのみに体系的手法は生きつづけて」おり、さらに「体系批判のカテゴリーは同時に特殊を把握するカテゴリーである」と言われる(ND, 38)。体系批判の方法は、「現象を解釈しつつ、ひたすら現象そのものを通して、しかも単なる現象以上のものを見る眼ざし」である(ND, 38)。ここには、素朴な現象主義と、現象を否定の力によって捉える、というアドルノの根本態度が現れている。そうした外-体系的現象は「断片」とも呼ばれ、「こうした断片こそ、それ自体としては表象することのできない全体を個別的なもののうちに表象してみせるのである」(ND, 39) ここでは、体系批判が、体系の全体性を無効にしつつ、この断片(現象、実在)の解釈を通じて、それ自体は表象不可能なある(非-体系的)全体を表象する可能性が説かれている。そこで、ついに「否定弁証法」とは何かが定義される。まず、「体系なき拘束への要求は思考モデルへの要求である」としたうえで、その思考モデルとは、「特殊的なもの〔非-体系的なもの〕を捉え、特殊的なもの以上のものをも捉える」(ND, 39)そして「哲学的に思考するということは、まさしくモデルにおいて思考すること」であり、「否定弁証法とはモデル分析の集合である」と言われる(ND, 39)。


アドルノは、現実を「非合理性」と一般的に形容したうえで、現実の構成について、批判的に論じている。「現実はもはや構成されるべきものではない。なぜなら、現実というものは構成されるとしたら、あまりにも徹底的に構成されねばならないものであろうから。そうした言い分に口実を与えるのは、部分的な合理性の圧迫のもとに強化される現実の非合理性、統合によって引き起こされるその解体である」(ND, 33) ここでは、体系が一般的に批判されている文脈で、市民的理性の口を借りてではあるが、アドルノの現実に対する理解が現れている。現実は、体系による統合化から逃れ去り、統合化に対して常に解体する。それが、現実の持つ非合理性ということである。さらに、恐らくはこのことと関連して、また体系批判の文脈で、動態(デュナーミク)の、体系に対する異質性が説かれる。動態的本質は、体系のもつ本質だと言われているのであるが、しかし、それは、「限界という概念を否認し、理論上はいつもなにものかがなお外部にあるということを確認するものであるから、それはおのれの所産である体系を否認する傾向を持つ」(ND, 37) さらに、「事象を概念的に把握するということは、個々の契機を他の契機との内的連関において認識することにほかならない」(ND, 35-36)と言われているとき、事象と呼ばれる体系の当の対象は、体系外のものであり、「非同一的なもの」であり、それを体系が解明する、ということは、体系と動態の統一として、ここで要求されているのだ。


主に観念論批判の文脈で、アドルノは対象に、決して概念的に絡め取られ切ることのない可能性を信じる、いわば信仰する。「否定弁証法がその硬化した諸対象に浸透する手段は、それら諸対象の現実性に搾取された可能性、それでもその一つ一つの対象から垣間見えている可能性である」(ND, 69) しかし、この信仰の中で、概念の性格について述べられている箇所は、アドルノの意図とは大分違った形で、啓発的である。「概念が妨げているものを成就しうるのは概念だけである。〔...〕すべての概念の規定可能な欠点が、他の概念を引き合いに出すことを強制する」(ND, 69) 私(織田)が主張する概念存在論にとって、存在するのは、概念だけであるが、しかしそこにおいても、概念化不可能なのは、思考そのものであった。思考が概念化不可能である、ということは、それは概念によっては形成されもしないし、形成されることを期待もされていない、公理のようなものである、ということである。思考は、実在と違って、他者ではない。それは、確かに何であるかが問われ、何らかの形で限定されねばならないが(例え概念存在論そのものが思考というものを限定的に事後的に定立する、ということであっても)、それは概念によってでも、外-概念存在論的な実在によってでもない、無のようなものである。しかし、概念存在論にとっては、概念そのものは、指示という機能を捨てた即自的なものである。それは、存在の在り方である。ところで思考とは、セリーによって表現されるものであり、そしてそのセリーによる表現に先立ってあるような何ものか実体的なものでない、とすると、このセリーを概念によって形成することは可能だと思われる。思考は超越論的セリーであり、大文字の思考はセリーの全体性である。だから、必要なのは、セリーを出来事や存在、存在者、概念―存在と、概念において差異化することであり、つまりセリーを概念によって明らかにすることである。伝統的には、思考と存在とは根源的な二元性をなす超越論的差異だ、といわれている。思考を、概念化された存在によって語ることは、概念を媒介としてこの差異を消去することだ。しかし、逆に、両者が還元不可能な差異を持つからこそ、概念を媒介とすることは、両者の異質性を際立たせ、差異を明らかにすることでもあり得る。思考は、セリーに還元された今となっても、存在の運動とは相対的な運動、あるいは相対的な秩序として、概念で語られうる。存在者のフラットな集合としての出来事が、いかにセリーを構成するのか、あるいは構成させるのか。その答えはある程度既に与えられている。受動的思考の、出来事の受動による変形の表現が、セリーであり、セリーとは思考の運動を表現する。それがいかに直感的に、思考の運動を表現しているか、は、ここでは重要ではない。出来事によって、諸セリーの布置が再編される、このことが概念的に理解できれば十分である。


アドルノのハイデガー批判の文脈で、存在について語られている。「存在はすべての制限された内容を失うので、もはや概念として現れる必要はなくなり、<このこれ>のように直接的なもの、つまり具体的なものとみなされることになる」(ND, 94) また、「存在は事実でもなければ概念でもないということによって、存在は批判を免れる」(ND, 94) 存在は概念ではなく、概念的な制約すら免れ、気ままな超越にして存在了解という最も内在的な具体として捉えられる。「存在するとは、差異を持つことである」という私の規定が有効なのは、そう限定することで、存在が作用として捉えられ、概念でもなければ事実でもない、といったように、存在の大いなる威光を虚飾として剥ぎ取る限りでのことである。しかし事態はそこまで単純ではない。アドルノのハイデガー批判において、存在者から存在への推論が語られている。

「いっさいのカテゴリーをともなわぬ存在者そのものという概念は、そのまったくの没規定性のゆえにいずれかの存在者に限定される必要はなく、<存在>とよばれてもよい」(ND, 132) ここではいわば、存在者(の没規定性)から存在が構成されているわけである。この構成に比べれば、存在を差異化作用として規定するのは恣意的であるが、しかし問題なのは「存在とは何であるか、存在するとはいかなる事態であるか」ということであり、「存在するとは、差異を持つことである」という私の主張、アドルノの言葉では、概念としての存在は「いかなる外延によっても限定されること」(ND, 132)になり、つまり差異の無制約的な存在を保証しているものとして機能することとして存在を捉えることは、根拠なきことではない。これが、存在が超越にまで祭り上げられ、その威光があらゆる外延に分有される、という主張に至った時は、アドルノと共にその不当な跳躍を批判すべきなのである。


しかし、あらゆるアドルノの時代遅れの診断の中にあってなお輝くものの一つに、対象の力動性というものがある。対象は、対象化作用によって構成される、といった一種のドグマチックな主観優位の教説に対し、対象が「固有の力動性」をもつ、といった視点は、ある対抗的な意識を投げかけるものである(ND, 113)。それは主観に仮定されたもので、やはりあるだろうが、しかし同じ主観によってその力動性を奪われることで、完全に実在性を失う。たとえその力動性が肯定されることで、それが主観的実在の地位を保つとしても、それが主観的である限りで、なおも対象化作用の理論に対するオルタナティブになり得るような、積極的な価値は、しかしながら見いだせない。


アドルノが言うところの、「存在をその外延論理的な概念から区別するハイデガーの試み」(ND, 121)は、存在が外延的な構成物でなく(外延的な構成物とは出来事と、存在者とである)、それ以上のものであることを思い出させるが、今や出来事と存在者とが共役可能となった今、存在と出来事の差異、存在と存在者の差異は、過酷なまでに架橋不可能である。それは、何か外延的なものに絶対に還元できないとすれば、それに対するあらゆる構成的な操作が無意味であり、従ってたとえ恣意的ではあっても、存在の意味そのものからして、それを差異化作用と規定することは、正当に思える。


アドルノが最も警戒する事態、ある事柄の存在論化は、次のように批判される。「総じてあるものが存在論的であるということはありえず、存在論的でありうるのは命題だけである」(ND, 156) つまり、個体とは、「あくまでも空間-時間的なもの、事実性、存在者」なのであり、その限りでその存在論化は不当である、という(ND, 156) 私は、水を初めとして、最終的にはあらゆる特殊的なものを、存在論化するという、「特殊な実体」説を取り、それは存在論的実在の本質の虚無化と、個から切り離されその差異が積極的に肯定されたところの種の離散とによって、洗練させられた。


あらゆる同時代的な哲学が忌避した主観と客観との厳密な区別とその維持、存在における事物性、こういったものを重視するアドルノにおいて、思考とは常に何かについての思考であり、それは以下に端的に示されている。「存在という概念も含めて、およそ概念を考えるためには、その基体としての<あるもの>が不可欠である。それは、たしかに思考とは同一化できない事物的なものを極度に抽象したものであるが、いくら思考を進めたからといって消去することができるというものではない」(ND, 164) この「あるもの」という概念が、概念とは明確に区別される何か実在的な性質を持っているのか、それとも単に思考には対象が必要である、と言うために要されているのか、ここでは判然としない。しかしアドルノの実在論は、明確に前者を指示するであろう。一般化、絶対化された私の思考における、対象のシフトも、それに伴い、対象の一般化、絶対化という誹りを受けるのであろう。


しかしながらアドルノは、実在に対するコミットの断念という私のプログラムに対して、ある程度の説得力を持った論理を展開する。それは、実在、あるいはアドルノの文脈では、個別的なもの、実存であるが、それは、「単にそれであるより以上のもの」であり、この「より以上」とはそれに内在するものであり、この非同一的なものは、「事物を同一化する諸々の識別作用に逆らう事物自身の同一性」である、という(ND, 198)。しかしこれは、実在の概念的規定に過ぎず、例えば私が、アドルノのいうところの「識別作用に逆らう」事物の本質を、ドゥルーズ批判の延長で演繹したのとは対照的である。もし事物が識別作用に逆らうならば、それはもはや事物であるとか、実存であるとか、そういった一切の規定が丸ごと不可能になるはずである。このようなアドルノの全否定を前提として、アドルノにおける個人と他者の関係性を吟味してみよう。「他者とのコミュニケーションは個人のうちに結晶し、個人はその現存在の中で、コミュニケーションを通じて他の人間と媒介されている」(ND, 198) この論拠は、個物にとっての外的なものが、個物に内在している、という構造を個物が持っている、ということである。この個物における外的なものは、様々な仕方で論じられ得るが、しかしながら存在者は己のうちに他者をもつ、といったようなほぼ共通理解的な認識であり、そこに異論はない。私は、そのように規定したが、しかしアドルノは、事物の「識別作用に逆らう」という規定から、この認識を引き出した。だから、この推論はまるごと不当に映る。アドルノははっきりそれを裏づける、「個物を思考から演繹することはできない」(ND, 198)


しかしアドルノ自身が強調するように、否定弁証法は客観性優位の素朴実在論とははっきり区別される。「〔客観性の優位は〕客観性は直接的なものであるとか、素朴実在論への批判は忘れてもいいということを意味しない」(ND, 225) 否定弁証法は、全体をもたらす総合の力よりも、分析の力を重んじ、弁証法である限りで媒介を重んずる。「客観の優位という言葉は、自身のうちで媒介されているもの〔主観と客観〕の質的区別が、弁証法の中の一契機として弁証法の彼岸においてではなく、その中で自己を分節しながら進展することを意味する」(ND, 225) それでは否定弁証法が、素朴実在論を取らないとすれば、それはどのように進行すべきか。「存在論が批判的に主観からその拘束力を持った構成的役割を剥奪する場合、この主観の代わりにあたかも第二の直接性とでもいうようなかたちで客観をもってくるのでないとすると、どうしてもそこには何らかの存在論的契機が必要である。客観の優位という事態には、ただ主観的反省、それも主観に対する主観的反省のみが達することができる」(ND, 226) これはどのようにして可能か。「主観は、それ自身が媒介されたものであり、それゆえ、客観をはじめて正当化する客観の完全な他者でないからこそ、一般に客観性を捉えることができるのである」が、しかしそれでも、「前者〔主観的媒体〕は、後者〔客観性〕が本質的にそれであるところのもの、存在者を吸収することはない」(ND, 226) ここには、観念論を反駁しようとしながら、主観性を媒介としてとらえつつ、そのうちになんとか客観の契機を見出そうとする努力が見られる。あるいは、客観性についてはこうも言われる。「客観は所与ではない」という説において、その所与は「その貧しく盲目な形態においては、まだ客観性ではない」のであり、「それはむしろ主観が具体的なものを取り押さえた後、自身の呪縛圏の中で完全にコントロールできない極限値にすぎない」(ND, 229) そして、何も否定弁証法は新しい実在論でないことが強調される。「所与がその形式を離れて純粋になればなるほど、それはますます貧しく、「抽象的」になる。主観が付け加えたものを差し引いた後になお残っている所与としての客観の名残りというものは、第一哲学の欺瞞である」(ND, 229) 素朴実在論的な所与、事実性といったものは、否定弁証法において、その直接的な形としては批判される。「客観は純粋な事実性以上のものである」(ND, 230) では客観性とは何か。「具体的客観の理念は主観的・外的なカテゴリー化と、その相関者である没規定的な事実的なものというフィクションとの批判から生じる」のだが、この事実的なものは、「過程の中で、これが即自的にすでにそれであるもの、つまり主観であることが明らかにされる」(ND, 230) しかし「主観は客観を創り出す」わけではないので、客観の身分とは、「主観は実際に客観を「眺めて」いるほかない」ようなものであり、それは主観の受動性の要請を意味する(ND, 230)。結果として、「事物そのものと呼びうるものは、事実的に直接眼前に存在して」おらず、「それを認識しようと思う者は、単に多様な綜合の原点であるにとどまらず、それ以上に思考しなくてはならない」(ND, 231) それは、いかなる理念でもないが、覆い隠されたものとしての、「非同一的なもの」である。


それにしても、アドルノの、理論の実践への接続の要求は、強力極まるものである。「理論は認識が客観的に到達した状態を素知らぬ顔をして黙殺することは許されない」(ND, 252) しかし、それはなぜなのだろうか。「理論と実践の統一」が図られるが、アドルノのあらゆる唯物論批判・素朴実在論批判にして、否定弁証法を携え媒介しさえすれば、物、実在の契機を認めるといった純粋に理論的な契機が、理論と実践の統一の要求と、密かに結託してはいないか。アドルノに言わせれば、私の哲学は「記録装置同然」にして、意識の現実の前での破産ということになろうが、それが肯定的に捉えられないわけは、アドルノのリアリズム、および理論と実践の統一への強い要求から生じたものであって、その逆に、哲学は記録装置に過ぎず現実の前に立つこともできない、という(アドルノ風にパラフレーズされた)認識は、(超越論的)実在論についての徹底的な批判を通じて演繹されたものであった。(織田理史)

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