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ドレイファスらの実在論と、池田一、万城目純のアートとその方法

H.ドレイファス及びCh.テイラー(以後「ドレイファスら」と表記)の「実在論を立て直す」を読む。彼らの大雑把なスタンスは、文脈主義的であり、全体主義的で、さほど哲学的興味を惹くものではない。ここでは、私の哲学と絡め、またアーティスト池田一および万城目純の方法の特異性について触れたい。


ドレイファスらの考え方で、示唆的であり有効である、と思われる部分がある。ローティを相手取って批判しながらも、ローティとドレイファスらの共通点として、「デカルトが立ち上げた基礎づけ主義の企図は見当違いの代物だった」というものを挙げている(66)。このデカルトの基礎づけ主義とは、「絶対に否定できない基礎的成分から確実な知識を組み立てるという計画」とも言い換えられる。さらにこの基礎づけ主義は、より還元されて、次の一連の議論によって、一般化された批判を受ける。「基礎づけ主義によれば、確実性を生み出すためになされる論証は、要素を確立するところから出発して(どんなことが真であるにせよ、わたしは<赤い・ここ・今>を確信している、ということから出発して)、全体を根拠づけるまでに至らなければならない。しかし、要素から全体の根拠づけを行うには、〔先ほどの確信の例で言えば、赤い、ここ、今といったような〕個々の要素を分離しなければならないが、〔確信における事実に鑑みて、あるいはそれが初め目指していた全体から遠ざかってしまうために〕そんなふうには要素は分離できないのである。」(67) 仮定的な全体を根拠づけるために、確信となっている要素は、抽象化の手続きを経るために脱事実化されねばならないが、他なららぬこの抽象化が、元の確信となっている要素を脱基礎化する。この議論は自明性(確信)から概念的思考への移行の困難に関する一種の洗練であり、私の議論とも、重なる部分がある。そこで前回の記事の再掲とはなるが、それを今一度掲示してみよう。


「我々はひとである」の非自明性、「我々は物である」の非自明性。前者は人間了解に留まるので、人間存在者分析から、人間とは何かを明らかにすることは出来ない。我々がひとでも、物でも、またその両者でも、あるという事が、自明的に言えないのであれば、「我々」とは何ら明らかにされることがない。しかも出発点として「我々」ということも了解でしかないとすれば、我々を分割することで我々を説明することが望まれる、その我々が論じ得ない。「我々」は何も指さず、むしろ内在・外在の区別以前の、純粋な現象、意識現象から受動的に構成される、非一貫的な内在と外在の区別こそが、単なる純粋な現象から区別される何ものかを構成するが、それは既にー定立されている区別である。思考、区別の思考が、常に既に作動している。この「思う」ことが、自我と存在とを分割している。しかし、常に既に、思考が定立されている…それに先行する何かによって。このグロテスクな絡み合う循環は、何か哲学的なものを、了解に過ぎないものと関連付けたり、等値したりすることから生ずる。


ドレイファスらの全体論はまた、池田一の「第一義的な表現」の解釈にも有効かもしれない。ドレイファスらは「世界」を全体と見なした上で、さらに「世界のなかを動き回り、対象にはたらきかける能力に含まれるものごとを把握するはたらき」を「身体性」と定義したうえで、「身体化した能力は、理論的な信念とは異な」る、ということで、自明性から自明性の概念を作り出していることに成功している、と一見見える。しかしながら、自明なのは「世界が存在する」という恣意的な信念なのであって、ドレイファスらの目論見とは逆に、信念が世界や身体性に先行している。世界を運動に関する「先行理解」とし、それは非概念的である、といくら強調しようとも(81)、そのことで世界が非概念的に捉えられているわけでは全くない、というのは当たり前のことである。


話をCOVID19とアートの話に転ずれば、多くのアーティストはまず活動の自粛が求められ、やがて様々な種類の配信が試みられ、配信は、アート経験の新しい形として一種定着した観がある。池田一が私に何度も強調したように、「美術館はそれだけで何重もの制度に絡め取られている」がゆえに、第何義にもなってしまう表現を退け、「第一義的な表現」を体現することの重要性が強調されよう。配信とは制度化された、池田から見れば恐らく、新たに付け加わった制度の一つであり、その媒介によって(それが新しい表現様式と経済を生んだのは確かであるが)第一義的な表現はますます遠ざかる。


目下、第一義的な表現は、理念以外の在り方以外には難しい。そこで、諸制度から成る制度を解体していくというよりは、表現の場にこびりついている諸制度を鋭く見抜き、それを解体するのではなく、利用して、新しい表現場を現出させる、といった想像力が考えられる。私の考えでは、このアプローチは国際的なアーティストである万城目純が取っている方法であり、また万城目自身が、アドバイスという形で私に示唆してくれた考え方である。「そこ」「ここ」で何をすべきか、何をしなければならないかの必然性を見抜くには、池田の屋外の「地球のへそ」を発見する、という真正面からの道と、万城目の諸制度の瞬間的把握に基づいた卓越した想像力による制度と表現の権力関係の〔抜け道的な〕逆転という道がある、と思われる。


第一義的な表現、この足でこの地を踏みしめているという自明、確信から、「その」理論への、いかなる正当化可能な媒介も存在しないことから、ここにまずアートは、「アートの理論」に回収されない独自の領域を確保する。(織田理史)

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