資本主義社会である以上、全ては資本という量で測られる。アーティストに話を限れば、「売れる」「売れない」など。特に日本という国家は、諸説あるものの基本的に単一的な民族性によって、価値観が二元化しがちだ。そのこと自体を問題に思っていた時期もあった。自分がやっている、即興の面白さを、広めたい。アート界を変えたい。アート界を引っ張っていきたい。しかしながら、これらのいずれの希望も、煎じ詰めれば、「資本主義社会においてアートを再定位したい」というだけのことで、結局は資本主義の論理に絡め取られている。どの人がどんな曲を好もうが、好まざろうが、それを変革したいというのは全き暴力であろう。
そんなことより、人間には資本主義的価値観に完全に還元され得ない、絶対的な剰余がある、と信じたい理由がある。ドゥルーズ(及びガタリ)は、資本主義の発生とそのオートポイエーシス的性格を描いて見せ、最近ではニック・ランドの「加速主義」と呼ばれる運動もあり、何やら白熱しているようだが、正直私自身は興味ない。もちろん、資本主義以前に戻ることは出来ない。そんなハッピーな空想よりは、「加速させてしまえ」という主張の方がよほど意味があるように思える。詳しくは忘れたが。
いかに資本に憑りつかれた者とて、その者に美を愛する気持ちが生来なかった、とは思いたくない。ちなみに私の哲学においては、美学が存在しない、というのも私の哲学において、美は存在論において(つまり存在論の語彙で)定義できるからだ。
もし人が美を、あるいはもっと適切には、有機的器官を超えた剰余を、生来有していないとすればそれはロックの「タブラ・ラサ」が正しいということになるが、そうするとこの資本-外の剰余は、社会的存在になる過程、あるいは精神分析学的な成長過程において、構成されたものだ、ということになる。その剰余の内実がなんであろうが、ドゥルーズ=ガタリは、欲望機械という一種のフラットな存在者の連結から、その剰余の存在を引き出して見せた。とすればこの洗練された議論によれば、美やその希求すら欲望から生じたものであり、それは一般的・直感的にも妥当しそうであるが、そう考えたくない理由はある。欲望を作動させるものは欲望だが、欲望=機械の自動システム構成では、語れないもの、それを「大事にしたい」という、ふわっとした希望がある。もちろん理論的には、私は反ドゥルーズ主義だし、欲望の連結から成るシステムが(大文字の)他者を前提しているがゆえに、神秘的であると断罪する立場ではあるのだが、ここではそれについてはこれ以上触れない。
人間は資本を回すだけの機械ではない、という希望と、資本から絶対的に剰余するものとしての芸術素、感受性、なんでもいいが、そうしたものが存在して欲しい。芸術素は、それ自体はまだ受信・発信の区別を持たない。普遍性も特異性も持たない、緩やかな共通性(共感)によって緩やかに繋がる、規則もなく、それゆえ一般的な議論では捉えられないような残余。その存在を大事にして、それが存在すると信じて、その存在を呼び掛けていくこと、そのことに、今私は、いかなるスター性やヒット性、社会現象性やセンセーショナル性、大規模なアートプロジェクト…そうしたものより遥か以上の重要性を見出している。(織田理史)
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