先日、長岡ゆりさんと正朔さんのワークショップに行き、物凄い衝撃を受けた。
ふと本棚を見ると、以前深谷正子さんに頂いたダンスワークの『特集-土方巽没後三十年』という特集があり、ふと手に取ってもみた。検索して真っ先に見つけた『夏の嵐』を見た。土方巽本人を知らない私が今土方巽を見るとはどういうことか。
自身が展開している” Anti-Automationism”(反-自動化主義)に通じるもの、そうでないもの、また異質なものをも見る。
当時として、身体の動きのヴァリエーションとしてはほぼ尽くされていると考える。しかしそれを『型』として分類すること以上に、意味のある分析が可能だと思われる。
運動は部位ごとでありかつ全体的であり、大きな時間性-克服しようがない時間性のうちに、身体の細かい部位ごとの運動の切断(リズム)と切断の曖昧化とが混在する。
しかしシーンごとのバリエーションによって、リズムが占める位置づけも変化するのであって、軽快な部分ではダンス的であったり、シリアスな部分ではほぼ切れ目のない流動性-
それも部位の運動の流動性と、部位の区分けの流動性とが成す複雑な内部運動がリズムを定義していたりする。そのことが身体の位置特定を不可能にしている。それが、舞踏する身体が異形になると言われる瞬間なのである。
ある部位における領域区画が流動的に変わるし、流動的に細分化あるいは再統合されるので、部位を既存の語で指示するということはもちろんのこと、単に指す、ということが意味をなさない。
リズムとはかえってそこから逆定義される。リズムとは指すことが意味をなすこと、
また指されたものが運動することによる区分化と各部位の速度の諸差異が成す多様性である。
重さの概念、重心の概念が消える。なぜか。第一に、それは支えるものとしての足、という概念が消失し、足に支えられる足より上の部分、という概念も同時に消失するからである。
第二に、身体感覚は、力が作用する自己-触覚だけでなく、力が緩むことによる触覚の一時の欠落によっても触発を受け、従ってその触発によっても運動を開始するからである。力を抜くことそれ自体が自己-触覚であり、それに導かれた運動は軽みを伴う傾向がある。
土方巽の作品について、その時代性、アンダーグラウンド性、土俗性、幽玄性といったものは大いに語られることである。またその当時の先進性や、偉大さと言ったものも膨大な論考が書かれてきたものと思う。今必要なのは、土方巽を知らない私が、現代のこの地点から歴史的文脈をある程度相対化したこの眼でその身体表現を冷静に分析することである。私は土方に対して何のノスタルジーも持ち合わせていないのだから。(織田理史)
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