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織田理史「Radical Duality – Electroacoustic Works」評「新しい何かが産まれてくるであろう」

T・ライリーの《A Rainbow In Curved Air》

本作は、P・シェフェールらが考案した、音がいかなる音源や意味にも結びつかないアクースマティックによって構成されているからこそ、私は参照事項を上げてみた。

黙示録の喇叭で始まる。霧。晴れの中の雷雨と洪水。突如、月から土を見る。かと思うと、地下のディスコ。近すぎて何も見えない。耳が覆われていく。自分が呼吸をしていないのか、分からない。電車に乗っている。古い機関車に乗っている。過去へ過去へ、遡っていく。トロン、第一次世界大戦。1970年代の踊り場。ハツネミク。砂の嵐。ファンファーレ。記憶にない記録。探し物が見つかる。ラーガ。反復。灰が飛んでいる。煙が迂回する。意識が空を突き抜ける。ガスが漏れている。通り過ぎるピアノ。津波の往復。山びこ。太陽が西に沈む。飛ぶ、サイレン。砂が舞う。黙祷。光が差す。肌が撫でる。木霊。揺らぎ。羽が擦れる。行進、下降する。地が揺れている。風が裂いていく。目が霞んで終わる。

本作に私は、このような自然を感じた。私は自然にこそ生命があると考えているので、単なる有機と無機の対比はしない。では本作に抒情がないとすれば、叙事になってしまう。情動に欠けているなら理性となる。いずれも本作には当てはまらない。移り行く精神現象に近いのだが、それよりも遥かに客観的である。それはまるで主観も客観もない、不二一元論に近い感覚を持つ。本作には時間と空間が確実に刻み込まれているのに、事象と事物で語りつくすことができないのだ。語彙や定義で批評することに拘る必要はないのだが、主観と客観、時間と空間のように、世界は常に背中合わせの存在によって成り立っている。それを、他の例から探ってみよう。

L・シャンカールはジャズ、クラシック演奏者等と多数共演してきたが、その演奏は極めて保守である。N・バナルジーは古典技法に徹底したが、その演奏はどこまでも革新であった。Y・クセナキスの音楽に、時空は存在しない。R・ハーパーの演奏は、あらゆる時空が含まれている。それはL・v・ヴェートーベンの後期ピアノソナタに似る。J・コルトレーンは常に、遡っていった。その結果旋律とリズム、ヴォリュームやタッチという概念が消尽していった。レッド・ツェッペリンはその多様性を削ぎ落とし、ロックの最終発展形に届く前に消滅した。K・シュトックハウゼンやG・マーラーもまた、同様であろう。本作に最も類似するのは、テリー・ライリーの《レインボー・イン・カーヴド・エア》か。

そのように考えると、本作には、対義語がない自由さが浮かび上がる。織田が哲学を学んできたことは知っている。哲学を学べばそのようなことが可能になると、私は考えているのではない。織田のパフォーマンスも見たことがある。織田がそれだけ常識から発想を解放し、更に新しいことに挑むことが重要なのだ。音楽家の緻密な作曲では生まれない音楽が、ここに集められている。しかもそれは散漫ではなく、ひとつの道筋が通っているのだ。ここに織田の、俗に言う「自己規定」ではなく、「自己限定」(九鬼周造)が潜んでいるのではないだろうか。聴く者は何物にも捕らわれずに、好きに本作に没頭すればいいだろう。そこから新しい何かが産まれてくるであろう。(宮田徹也|日本近代美術思想史研究)

 
 
 

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